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高敞邑城(고창읍성)

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住所
全羅北道 高敞郡 高敞邑 牟陽城路 1
전라북도 고창군 고창읍 모양성로 1
タイプ
古宮/城/門
問合わせ
高敞邑城 +82-63-560-8067
ホームページ
高敞文化観光 http://www.gochang.go.kr(日本語あり)
  • 概要
    概要

    韓国南西部にある全羅北道(チョルラプクド)高敞(コチャン)は韓国の郡の中では最大の支石墓密集地域となっている地域です。
    高敞邑城(コチャンウプソン=牟陽城[モヤンソン])や禅雲寺(ソンウンサ)、そしてパンソリ活動家として知られる桐里(トンニ)申在孝(シン・ジェヒョ=1812~1884年)や詩人の未堂(ミダン)徐廷柱(ソ・ジョンジュ=1915~2000年)の故郷・高敞は、三韓時代の馬韓(マハン)にあった54の小国の一つ「牟盧卑離国(モロビリグク)」を起源とし、百済(ペクチェ)の時代には「毛良夫里県(モリャンブリヒョン)」あるいは「牟陽県(モヤンヒョン)」、高麗時代以降は「高敞県」と呼ばれました。

    高敞は万丈山(パンジャンサン)がある蘆嶺山脈(ノリョンサンメク)を背後に抱き、西海(ソヘ)の海に面するところに位置する地域です。
    特に高敞は全羅北道の三神山のひとつである万丈山の山々がつづき高台を形成している場所です。万丈山が左右に広がり、高敞郡一帯に広大な大地を形成しています。
    高敞は風水地理的に、自然哲学の思想・五行に適した形態をとっている稀な地域で、東側と南側が高い地形となっている反面、西北側が低くなっています。
    高敞地域は風の通りや陽の当たり方が全体的に大変よく、農作物の栽培にも向き、また自然環境もよいことから秀でた人材を輩出する地域としても有名で、伝統文化などが盛んな地方・芸郷(イェヒャン)としてもよく知られる地方です。
    高敞の山野は全羅北道の他の市や郡に比べ、あまり標高が高くない小高い山々からなり、非山非野の地域となっています。

    * 沿革
    高敞邑城は、朝鮮時代の端宗元(1453)年に倭侵を防ぐため、全羅道の民らがいざという時の守りを固める目的で築城した城郭です。
    別名・牟陽城とも呼ばれるこの城郭は、朝鮮時代の地方防衛組織で羅州(ナジュ)にあった羅州鎮管(チングァン)、笠岩山城(イバムサンソン)とともに、湖南(ホナム=全羅道のこと)内陸を守備する前哨基地として役割を担い、現在では国難護国の役割を果たした国防関連文化財として大切に保護されています。
    1965年4月1日、史跡第145号に指定された高敞邑城の城郭は周囲1684m、高さ4mから6m、総面積はおよそ16.6ha(50,172坪)の規模を誇り、東門・西門・北門とそれぞれ門を防御するために囲まれるように作られた甕城(ウンソン)、敵の攻撃をいち早く対処するため城郭に突出するように作られた6か所の雉城(チソン)をはじめ、城外にある垓字(ヘジャ)と呼ばれる堀など戦略的要衝施設が至る所に設けられています。
    城内には地方官庁の長が執務した東軒(トンホン)、客舎など22棟の官衙の建物や二池四泉(二つの池と四つの井戸)がありましたが、戦火により焼失し、城郭と正門に当たる拱北楼のみ残っていたものを1976年から本来の姿を取り戻すべく復元作業を行っています。

    * 築城の目的
    山城は城と隣接した場所に築城されることが常ですが、高敞邑城の場合は最も近い山城に笠岩山城があり、その笠岩山城は羅州鎮管とともに湖南(ホナム=全羅道のこと)内陸を防衛する要衝地でした。
    当時、湖南内陸から漢陽(ハニャン=現在のソウル)に向かうには、蘆嶺山脈にある現在の全羅北道井邑市(チョンウプシ)と全羅南道長城郡(チャンソングン)の間の峠・カルジェの峠越えをしなければなりませんでした。しかし、 カルジェの峠は大変険しく難儀を与える場所でした。
    この場所を守備することに加え、霊光(ヨングァン=全羅南道)・高敞・長城(チャンソン=全羅南道)など周辺地域の農産物や海産物を法聖浦(ポプソンポ)の港を通じて搬出されることを防ぐ役割も笠岩山城が担っていました。
    また、笠岩山城は西海(ソヘ)沿岸を虜掠する倭寇から防御する役割を果たさねばなりませんでしたが、笠岩山城から法聖浦、高敞、霊光地域は大変遠く、笠岩山城の力は大きく及ばず、笠岩山城に代わる西海沿岸一帯を守る前哨基地が絶対的に必要な状況でした。
    高敞邑城はこのような理由から築城され、湖南地域を倭寇の虜掠の手から守る存在の城でした。

    * 築城方式
    築城に使われた石材はほとんどが自然石ですが、礎石・大理石・幢竿支柱(タンガンチジュ=寺で法会などを行う際に掲げる旗を挿す支柱で基礎部分に花崗岩などの石を使う)など、どの寺でも使われているような石材を割って利用されているのも所々で見受けられます。
    特に北門である拱北楼(コンプンヌ)を支える柱の基礎となっている石柱状の礎石の高さはさまざまで、1mほどのものがある一方、柱のほとんどが石柱となり、木の柱となっているところがほとんどないものもあり、他の楼閣にはない特徴となっています。

    * 高敞邑城の特徴
    朝鮮時代の邑城は平野地帯に邑の周囲を石で築き上げ城郭で囲い込み、城内では官民ともに生活をしていました。
    内と外を行き来する城門の上には楼閣を造り敵を監視、戦になるとその楼閣から兵士らの指揮を行いました。
    しかし、高敞邑城はこの典型的な邑城とは異なり、物静かな山野を利用、城郭の内側は土砂で頑丈に固め外側だけ石積みして城を築く内托法の築城技法を用い、城門前には甕城で囲み、敵から城門を守れるよう築城しました。
    また、城内には官衙のみを造り、一般の民らは城外で暮らし、いざ戦となると城外に住む民も城内に入り、兵士とともに戦えるよう四つの井戸と二つの池まで造っていました。
    城壁には築城に関わった邑の名前や築城年代が刻まれており、癸酉年(1453)年に全羅左道・右道(朝鮮時代当時の全羅地方の行政区域)の民が総出で築城したことを垣間見ることができます。

    ▶ 踏城(タプソン=ソンパルキ・城踏み)ノリ
    城を踏み歩くと病にならず長生きし、あの世へ行くときは極楽門に行きつくことができるという言い伝えがあることから、毎年踏城ノリという行事がここで行われています。
    この城踏みはあの世の門が開く閏月に行なえば効験が高いということで、同じ閏月でも3月の閏月が最もよいとされています。
    また六のつく日にあの世の門が開かれるいうことで、 月の六日、十六日、二十六日の日に人々が集まり城踏みの列が長く続きます。
    城を「一周すれば足の病がよくなり、2回周れば無病息災で長生きし、3回周れば極楽浄土に行ける」といいます。
    城を周るときは必ず手のひらほどの石を頭に載せて城を周り、城の入口に来たらその石を積み重ねておきます。
    これは高敞邑城が女性たちの力だけで築造されたという言い伝えがあることに発した風習で、土をひと掴み、石ひとつから当時女性たちが手に持ったり頭に載せてここまで運び構築したという築城当時を省みることができます。
    また、石を頭に載せて城を周る慣習は、石の重みで女性たちの体重を増やし、その重みで邑城をより頑丈に踏み固める意図もあったものと思われます。
    なによりこの石を頭に載せて運んだという最も核心的な意味合いは、この城郭の築城背景ともなった倭寇による侵攻から防御するという目的から、戦となった時この石で抗戦するため城内に石を積み重ねておいたというもので、この逸話は自らの国を守る輝かしい護国の精神を示すものとなっています。
    地元・高敞郡ではこのような踏城民俗を称えるため、陰暦の9月9日の重陽節を郡民の日として定め、「牟陽城祭」を開催するとともに踏城ノリの再現も行っています。

    ▶ 守門将再現
    陰暦9月9日頃の4日間「牟陽城祭」が行われ、朝鮮時代の官軍の服装をした守門将(スムンジャン= 城門を守る武官)が高敞邑城を守衛する場面を毎年再現しています。
    高敞邑城の城郭の周囲には数十にも及ぶ古の時代の陣営旗がはためき、また高敞邑城の正門にあたる拱北楼(コンプンヌ)の前では、この地方を治めていた守令(スリョン=県監)がいた時代、地方の行政を担った官衙(クァナ)の威厳を保ち、色とりどりの凛々しい朝鮮時代の官軍服を着て刀を持った武官・守門将や、白黒の巡邏(スルラ=巡察)の服装に槍を持った捕卒(捕り方)の古を再現した姿をご覧いただけます。
    近くの管理事務所では、ご訪問頂いた観光客の方向けに当時の官軍を再現した服装をご用意し貸し出しも行っており、この服を着て記念撮影も可能です。また、官軍体験もできるプログラムもあります。

    ▶ 斥和碑
    この斥和碑(チョカビ)は朝鮮時代末期に大院君(テウォングン)が行った鎖国政策の象徴で、丙寅年(1866年)に碑文を作り、辛未年(1871年)に建てられたものです。碑文には「西洋の蛮夷が侵犯したにもかかわらず戦わずにいるということは即ち和親を行おうということであり、和親を行おうとすることは、国を売ることに他ならなず、これをすべての民に戒める」という内容が刻まれています。
    この碑文が作られた丙寅年(1866年)にはフランス人宣教師の処刑など天主教(カトリック)に対する弾圧が引き金となり丙寅洋擾(ピョンイニャンヨ=朝鮮とフランスとの戦い)が発生、またこの碑を建てた辛未年(1871年)には米軍艦の江華島侵犯がきっかけで辛未洋擾(シンミヤンヨ=米商船シャーマン号沈没をめぐる朝鮮と米国との戦い)も発生しました。

    ▶ 官衙の建物
    邑城内には22棟の官衙の建物がありましたが、戦火により焼失し、1976年から現在に至るまで東軒と客舎など12棟の官衙の建物の復元が完了、残り10棟も今後復元される予定です。



    指定現況
    史跡第145号(1965年4月1日指定)

    休業日
    年中無休

    利用時間
    4:00~22:00

    駐車施設
    駐車可能

    入場料
    * 個人 - 大人 3,000ウォン/青少年など 2,000ウォン/子ども 1,500ウォン

    ※ 子ども(小学生・満7歳~満12歳)、青少年(満13歳~満18歳の者及び学生証を所持した高校生・大学生)、高齢者(住民登録証あるいは敬老優待証を持つ満65歳以上の者)、大人(満19歳~満64歳)
    ※ 入場料免除対象者
    ・国賓・外交使節団及びその随行者
    ・国家無形文化財保有者及びその随行者
    ・文化財を研究するため文化体育観光部の承認を受けた者
    ・保護者同伴の満6歳以下の子ども
    ・住民登録証あるいは敬老優待証を所持している満65歳以上の高齢者など



    トイレ
    あり

    駐車料金
    無料

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