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海印寺(陜川)(해인사(합천))

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お知らせ
※2月21日(金)午後9時~3月1日(日)までの間、コロナウイルス感染症‐19拡大防止のため、外部訪問者の海印寺境内への出入が全面的に規制され、一般の方の拝観はできません。※
住所
慶尚南道 陜川郡 伽倻面 海印寺キル 122(伽倻面)
경상남도 합천군 가야면 해인사길 122 (가야면)
タイプ
寺/宗教聖地
問合わせ
海印寺(陜川)+82-55-934-3000
チケット売場 +82-55-934-3140
海印寺布教局 +82-55-934-3110
ホームページ
海印寺 http://www.haeinsa.or.kr(韓国語)
☞ テンプルステイの情報についてはこちら(韓国語・英語)
  • 概要
    概要
    ※2019~20 韓国観光100選※


    韓国の三大寺刹の一つで、新羅時代の哀荘王(エジャンワン)3(802)年に順應(スヌン)、理貞(イジョン)両僧侶によって創建された海印寺(へインサ)。

    華厳経の精神境地・海印三昧から由来し、法宝宗刹としても有名です。高麗(コリョ)太祖(テジョ)は海印寺にいた学僧・希朗(ヒラン)が後百済を打ち立てた王・甄萱(キョンフォン)を追い払ってくれたことに対する見返りとして、この寺を高麗の国刹とし、田畑500結を下賜しました。

    海印寺は法宝宗刹であり、華厳十刹のひとつに数えられています。新羅時代末期の文人・崔致遠(チェ・チウォン)の伽倻山海印寺善安寺住院壁記によれば、海印寺は順應・理貞両僧侶によって新羅時代の哀荘王3年(802年)に創建され、先王の妃、つまり哀荘王の祖母に当たる聖穆太后(ソンモクテフ)が大施主だったといいます。

    「海印」とは華厳経の「海印三昧」に由来するもので、海印寺は華厳思想を闡明すべく建立された寺です。
    海印寺を韓国の三宝寺刹のひとつである法宝宗刹と呼ぶのは、海印寺大蔵経板殿に高麗大蔵経板・法宝が保管されていることに由来します。

    海印寺には、大蔵経板殿、大寂光殿(テジョックァンジョン)、 冥府殿(ミョンブジョン)、独聖閣(トクソンガク)、応真殿(ウンジンジョン)、凝香閣(ウンヒャンガク)、 堆雪堂(テソルダン)、解行堂(ヘヘンダン)、 尋剣堂(シムゴムダン)、窮玄堂(クニョンダン)、 経学院(キョンハグォン)、寂黙堂(チョンムッタン)、観音殿(クァヌムジョン)、 九光楼(クグァンヌ)、 普敬堂(ポギョンダン)、大蔵経保全研究所、 名月堂(ミョンウォルダン)、四雲堂(サウンダン)、清和堂(チョンファダン)、 梵鐘閣、雨花堂(ウファダン)、解脱門(ヘタルムン)、天王門(チョナンムン)、一柱門(イルチュムン)など数多くの殿堂があります。

    また、 付属の庵子として、 願堂庵(ウォンダンアム)をはじめ、弘済庵(ホンジェアム)、 龍塔禅院(ヨンタプソノン)、 白蓮庵(ペンニョナム)、知足庵(チジョガム)、希朗台(ヒランデ)、三仙庵(サムソナム)、金仙庵(クムムソナム)、薬水庵(ヤクスアム)、国一庵(クギラム)、普賢庵(ポヒョナム)、金剛窟(クムガンクル)、吉祥庵(キルサンアム)、孤雲庵(コウナム)、看月庵(カノルアム)、清凉寺(チョンニャンサ)などがあります。


    * テンプルステイ *
    テンプルステイは、自然と仏教文化が融合した寺で修行者の日常を体験し心の憩いと伝統文化を体験できるプログラムです。日常生活で疲れた現代人を対象にした伝統寺刹の作法や修行法を学べる、個人・団体を問わずだれでも参加できる真の「自分」を探し求めるプログラムとなっており、心の安らぎと活力を取り戻ることができます。


    * 文化財 *
    高麗八万大蔵経(国宝第32号)、大蔵経板殿(国宝第52号)、般若寺元景王師碑(宝物第128号)、月光寺址三層石塔(宝物第265号)、陜川郡伽倻面緇仁里磨崖如来立像(宝物第222号)、清涼寺石造釈迦如来坐像(宝物第265号)、 清涼寺三層石塔(宝物第266号)、地方文化財第253号吉祥塔などがあります。
    重要民俗資料第3号「光海君内外(夫妻)及び尚宮服」やおよそ100種の国宝級の価値を持つ貴重な文化財です。

    [大寂光殿]
    慶尚南道有形文化財第256号・大寂光殿は、毘盧遮那仏を本尊とする華厳宗の寺の中心となる法堂(本堂)です。 釈迦が説法をした心理が太陽のように宇宙を遍く照らすことを形状化した毘盧遮那仏は、仏教の真理を象徴する仏像です。
    毘盧遮那仏を奉る殿閣は大寂光殿のほかにも華厳殿や毘盧殿(ピロジョン)があります。この大寂光殿は802(哀荘王3)年に順應、理貞両僧侶が創建しました。 創建当時の名称は毘盧殿でしたが、朝鮮時代初めの1488(成宗19)年に王室の援助により、学祖(ハクチョ)国師が重創し、大寂光殿と名称を変えました。
    現在の建物は、朝鮮時代末期の1817(純祖17)年に焼失し翌年重建されたものを、1971年に海印寺の住持などを歴任した僧侶・智冠(チグァン)によって重修した建物です。 大きな寺の中心の仏殿にふさわしく、正面5間、側面4間の多包系入母屋屋根をした雄大な姿をしています。
    朝鮮時代の画家・鄭敾(チョン・ソン)が描いた海印寺図にも、大寂光殿が二階建ての建物として描かれていますが、1817年の火事以前には今よりもさらに大きな建物であったと推測されます。
    現在の大寂光殿の姿は朝鮮時代後期の典型的な多包系入母屋屋根の建物で、重修を行う過程で、その多くが変形したことが分かります。
    法堂内には龍起寺(ヨンギサ)から移した中央の大きな毘盧遮那仏をはじめ、法壇の左から右へ、法起菩薩、普賢菩薩、地蔵菩薩、毘盧遮那仏(大)、毘盧遮那仏(小)、文殊菩薩、観世音菩薩の順で7体の仏菩薩が祀られていますが、毘盧遮那仏と地蔵菩薩が一緒に祀られているのは大変異例なことです。これはこの寺の近くで焼失してしまった法堂にあった地蔵菩薩をここに移し祀っているためと推定されます。

    [海印寺石灯]
    慶尚南道(キョンサンナムド)有形文化財第255号の石灯(石灯篭)は、釈迦が鎮座する寺に明かりを灯すため作られたものです。
    釈迦の供養と関連する石塔ということで、釈迦を象徴する塔とともに法堂(本堂)の前に置かれています。
    この石塔もやはり元々は石塔の前にありましたが、現在の位置に移されました。移動させられた理由や時期については定かではありません。
    石塔は下から基礎部分の礎石や柱石(竿)、明かりを灯す火舎石(火袋)、屋根石(笠)などが積みあがって作られている構造となっています。
    柱石は作られた当時のものではないため、当初の全体の大きさは分かりません。一番下の四角い礎石には象の目の形をした模様が刻まれ、その上の八角形の支え台には八枚の蓮の花がそれぞれ天に向かうよう開いた姿で刻まれています。 明かりを灯す火舎石には4つの窓(火口)を開けていますが、その窓の間の4面にはそれぞれ四天王像を浮き彫りにしており、異彩を放っています。
    屋根石はやはり八角形となっており全体的な調和をなしており、一番上には丸い球を載せています。
    彫刻された眼象の模様や蓮の花の模様の優雅な彫刻技法、 そして、全体的な様式から、この石灯は統一新羅時代のものとみられています。
    一方、1398年、朝鮮時代初代の王・太祖(テジョ)の治世の太祖7年に、江華(カンファ)禅源寺(ソノォンサ/ソンウォンサ)にあった八万大蔵経を支天寺(チチョンサ)へ移し、翌年ここ海印寺に移しました。
    八万大蔵経板殿は1995年12月に世界文化遺産として正式に登録されました。境内には一柱門(寺の参道入口にある門)、大寂光殿、九光楼などの文化財や庵子などが至る所にあり、ひっきりなしに人々が訪れています。

    [海印寺三層石塔]
    慶尚南道有形文化財第254号・海印寺三層石塔は、二重基壇と三段になった塔身及び屋根石からなる統一新羅時代後期の典型的な様式の石塔です。
    元々、この塔は新羅の石塔の様式である二段の構造となっていましたが、1926年に塔を修復しさらに一段加えたため、建立当時の本来の調和の美を相当部分、失ってしまいました。
    二重基壇の上の基壇の四隅や中央、塔身部の四隅には柱模様の彫刻が あるほかは特段彫刻がありません。
    屋根石の真下にある支える部分の石は、新羅時代の石塔の典型である5段構造の薄い石が重なっており、屋根石の軒の先は緩やかにやや上に跳ね上がった形となっています。
    屋根石のそれぞれの角には小さな鐘がぶら下がっていますが、建立当時のものはすでに無く、いまつけられているのは後の時代に再び掛けられたものです。
    塔の先端の相輪部もやはり一部が無くなっており、相輪部を支える基壇部分とその上にある蓮の花の模様をした仰花(アンファ)、そしてさらにその上の宝輪(ポリュン)部分のみが残っています。
    1926年6月にこの塔を修復する過程で塔の上段の石の箱の中から九つの小さな仏像が発見されましたが、石塔を修理し終えた後、再び石塔の中に納めました。
    また、この石塔の前には象の目の形を形状化したという眼象(アンサン)や蓮の花の模様が彫刻された拝礼石がありますが、補修の過程で石灯の前へ移されました。 「朝鮮仏教通史」には太祖が即位し、この塔を補修する際、大蔵経を塔の中に奉安し、国の繁栄と民の平安を祈願したと記録が残っています。
    しかし、1926年に塔を修復する際、大蔵経は発見されなかったため、太祖が修復した塔がこの塔であったのか論議の余地があります。
    さらに近年の寺の補修の際、経学院(キョンハゴン)のそばで新羅石塔の石材が発見されたことから推測すると、また別の石塔があった可能性も高いと思われます。

    [伽倻山]
    伽倻山(カヤサン)は法宝宗刹・海印寺の主山で、標高1430mの小白(ソベク)山脈に属する朝鮮八景のうちのひとつです。
    伽倻山は古から霊山という存在の山で、朝鮮時代第4代の王・世宗大王(セジョンテワン=在位:1418~1450年)にいたっては伽倻山を天下の名山であり生仏住処と称しました。また、初代駐韓フランス大使を歴任したロジェ・シャンバール氏は、伽倻山の素晴らしい景色や高麗八万大蔵経板に感服し、最期の遺言に自分の遺骨を粉にして海印寺に散骨してほしいと残したほどで、実際にシャンバール氏が1982年にこの世を去ると、海印寺の千仏洞(チョンブルドン)で散骨を行いました。
    武陵橋(ムルンギョ)からはじまる紅流洞(ホンニュドン)渓谷は赤松が生い茂るおよそ10里(註:韓国の1里はおよそ400m)の水石や松林が続く渓谷で、他の寺や名山でも見受けられない絶景となっています。

    [陜川・学士台モミの木]
    慶尚南道記念物第215号である学士台(ハクサデ)モミの木は、高さおよそ30m、幹回り5.1mほどになる樹齢千年を超える古木です。
    木の幹が地上から10mほどのところで二又に分かれ、枝が下に向かって伸びています。
    言い伝えによれば、この場所は、新羅時代の文人・孤雲(コウン)崔致遠(チェ・チウォン)先生が晩年に官職を捨て、伽倻山に隠居した際に訪れた場所と言われています。学士台という名称は崔致遠先生が憲康王(ホンガンワン:在位875~886年)の時代、29歳で翰林学士(ハルリムハクサ)の官職に就いたことから、この官職の名称を取って学士台と呼ばれるようになったということです。
    孤雲・崔致遠先生は、晩年、弟子を前にこの場所に杖を差し「自分が生きていれば、この杖もまた生きているという証拠だ、それゆえ学問に没頭せよ」と遺言を残し、現在の弘済庵の裏手のチンデパッコルの谷へ悠々と一人で消えていったという言い伝えが残っていることで有名な場所です。
    このような言い伝えがあることから、ここにあるモミの木をことを崔致遠先生の「杖の木」と呼んでいます。

    [枯れ木の由来]
    この枯れ木は、新羅時代の第40代の王・哀荘王の時代、哀荘王3(802)年、順應、理貞両僧侶の祈祷により、哀荘王后が不治の病と思われていた病から回復し、哀荘王がこの恩徳に報いようと法堂(本堂)や僧寮など多くの伽藍の建物を献供し海印寺を創建、これを記念し植樹した木と伝えられています。
    このケヤキのは樹齢約1200年という永い歳月の間、海印寺とともに成長してきましたが、1945年に樹齢を終え枯れてしまいました。現在では根本だけ残り、海印寺の悠久の歴史を物語る枯れ木となっています。

    [海印寺蔵経板殿]ユネスコ世界文化遺産
    国宝第52号(1963年12月20日指定) 海印寺蔵経板殿は、建物全体が特殊というだけでなく、高麗大蔵経を所蔵する板殿として有名です。
    同じような様式の二つの建物が南北に軒を連ね建てられており、南側の建物を修多羅殿(スタラジョン)、北側の建物を法宝殿(ポッポジョン)と呼んでいます。
    建物は単純な構造となっており、構造の細部に至ってもやはりシンプルな造りで、板殿として要求される機能を満たす以外には特段装飾的な意匠を加えていない建物となっています。
    さまざまな模様の自然石の礎石の上に、胴張りの大きな柱(徳利柱)を立て、柱の頭に該当する部分には柱頭を取り付けています。この柱頭の上には大梁を載せ、これが直接、屋根の真下にある桁・柱心桁(チュシムトリ)を支え、その下には簡単な装飾組物である翼工(イッコン)があるのみです。棟梁は大梁の上に置かれた束柱の上に置かれ、中央に同じような様式の束柱を置き棟梁を支えています。この束柱はすべて下の部分に簡単な華盤(ファバン=花盤)を入れ固定させています。躯幹部分は短い角柱で、頭の部分には組物・包作(ポジャク)を取り付けています。この包作の檐遮(チョムチャ)は 梁の下を支える側が草工(チョゴン)の模様となっており、桁の下の長舌(チャンヒョ)を支えているのは多包様式の檐遮及び小累(ソヌ)と同じような形になっています。
    蔵経板殿は正面15間、側面2間の大きさの修多羅殿、法宝殿と、正面2間、側面1間の寺刊殿(サガンジョン)である東・西庫など4棟が長方形の口の字型に配置されています。修多羅殿と法宝殿は寄棟造りの屋根で、東・西寺刊殿は切妻屋根の建物ですが、その造りは倉庫としての機能を十分に発揮できるよう風通しを配慮し、建物の大きさを南側と北側でそれぞれ変えており、柱と柱の間にはそれぞれ明かり窓を設け、装飾的要素はすべて排除した造りとなっています。
    板殿内部は土の床で、大蔵経板を配架する板架(パンガ)が設けられ、天井は垂木がむき出しのままとなっている椽灯天障(ヨンドンチョンジャン)となっています。
    1964年、解体修理を行う過程で、修多羅蔵(スタラジャン)と法宝殿(ポッポジョン)の上樑文(上棟文)が発見され、光海君の御衣が発見され保存されています。


    * 文化財の宝庫、海印寺について *

    海印寺は通渡寺、松広寺とともに三宝寺刹の一つに数えられ、 唐で修行を行った順應、理貞両大師が新羅時代末の哀荘王3(802)年に創建したものと伝えられています。境内には大小さまざまな法堂がありますが、その大部分は近世に建てられたもので、蔵経板殿のみが朝鮮時代初期に建てられた建物です。この建物の建立時期は建物に使われた瓦当あるいは平瓦に記されている弘治元(1488)年という刻銘などから推定されます。壬辰倭乱(日本でいう「文禄・慶長の役」)の際にも無事でしたが、長い歳月を経て老朽化したものを朝鮮時代中期の光海君14(1622)年に修多羅殿を重修し、1624年には法宝殿も重修しました。

    [海印寺大蔵経板(八万大蔵経)]ユネスコ世界記録遺産
    海印寺大蔵経板は高麗時代に板刻されたため高麗大蔵経板と呼ばれており、また板の数がおよそ8万枚に及び、八万四千の煩悩に対する八万四選の法文を収録したということから、八万大蔵経とも呼ばれています。
    モンゴルの侵入により、初雕大蔵経板(チョジョテジャンギョン)が焼失し、再び作られた大蔵経のため、再雕大蔵経板と呼ばれ、現在、海印寺に保管されていることから海印寺大蔵経板と呼ばれています。この大蔵経板は海印寺法宝殿や修多羅殿に保管されています。
    この大蔵経板は、現在なくなった宋の北宋官版や契丹版大蔵経の内容を知ることができる唯一の大蔵経であるばかりでなく、現在世界で最も古い大蔵経板です。
    また、この大蔵経は大蔵経刊行の歴史において、内容が最も正確で完璧な大蔵経板として知られています。日本では1614年にこの大蔵経を元にして大蔵経宗存版の制作に取り掛かりましたが途中で断念、その後、新鉛活字により大日本校訂縮刷版大蔵経(1880~1885年)、大日本続蔵経(1902~1912年)、大正新修大蔵経(1924~1934年)を作る元となり、また中国では仏教大蔵経(1979年)や現在刊行されている仏光大蔵経(1983年~)の元となるほど、その内容が世界で最も正確な大蔵経として知られています。
    刊行記録を調べてみると、高麗時代の高宗(コジョン)24(1237)年から35(1248)年まで12年間で刻まれたものであることが分かります。
    「高麗史」に16年かかったとされているのは準備期間を合わせたもので、高麗大蔵経板刻事業は初雕大蔵経板が焼失した翌年の高麗時代の高宗20(1233)年ごろには始まったものとみられます。
    この時、刻まれた大蔵経板はすべてで1,496種6,568巻で構成されています。この大蔵経板の特徴は何よりもその事業を主管した当時の開泰寺(ステサ)の僧統・守其大師(スギテサ)が北宋官版、契丹本、初雕大蔵経などを参考に内容を比較し、間違えを修正するしました。この時修正した内容は、高麗国新雕大蔵経校正別録に収録されています。
    江華都城の西門外にある大蔵経板堂に保管されていましたが、禅源寺(ソノンサ)を経て、太祖7(1398)年5月に海印寺に移し、今日まで保管されています。大蔵経板の数は日帝強占期に行われた調査によると81,258枚と記録されていますが、ここには大蔵経板ではない朝鮮時代の時に版刻されたものも含まれています。
    このようなことは経板の刊記や経板に刻まれている刻手(彫刻師)を調査し得られた結論です。
    大蔵経板の巻末には乙卯年 高麗国家大蔵監奉勅雕造と刊記が記録され、各経板の巻頭題や巻尾題の下の匡郭(木版等の外枠)の欄外に刻手の名前が刻まれています。 海印寺大蔵経板は数千万個の文字が一様にその刻みが均等で精密な書閣芸術品として韓国の民族が残した最も偉大な文化遺産のひとつです。

    [海印寺の統一新羅の典型的な石塔、海印寺吉祥塔]
    吉祥塔(キルサンタプ)は、統一新羅時代の典型的な石塔様式を持つ塔で、基壇は二段となっており、特異な点はその上の段の基壇が一つの石でできている点です。
    全体的にみると、塔身の部分に比べ基壇の部分が低く幅広でどっしりとした安定感があります。 屋根石を下から支える屋蓋台の石はそれぞれ薄い石が重なった五段構造となっており、塔の先端部分・相輪部(サンニュンブ)は露盤より上が欠損しているものの、露盤に直径5.2cmほどの刹柱を挿していた円型の穴が残っています。
    この塔から発見された遺物は、現在、国立中央博物館に所蔵されています。そのうち、土製の小塔が157個ありますが、完全な数ではありません。これはこの塔の建立が塔誌の記録からも分かるように、統一新羅時代に流行した造塔経である無垢浄光大陀羅尼経に依拠して建立されたもので、小塔は通常、99個、77個が安置されているため、19個は無くなってしまったものと考えられます。
    また、4枚の塔誌は23cmの正方形の形をした厚さ2.4cmの黒い瓦板で作られており、銘文は新羅時代末期の偉大な文人・崔致遠が選んだものとして有名です。
    吉祥塔は、乾寧(コルリョン)2年(新羅時代・真聖女王8[895]年)前後の7年間、統一新羅時代末期の混乱の中で悪事を働く盗賊らから寺の宝を守るため心血を注ぎ犠牲となった僧俗の霊を鎮めるためにこの塔を建立しました。
    塔の高さ、工匠僧、塔の中に納められた法宝の中身や塔を建立した際にかかった費用などの記録が残っていることも注目に値します。
    特に、塔の高さは一丈一尺と記録していますが、これは塔の最上部・上輪部が失われてしまっているものの現在の高さを3mとする場合、この塔を作るにあたり、唐尺が用いられていたということが分かり、当時の度量衡を研究する上で貴重な史料となります。
    他にも、塔誌の記録によれば、石塔の建立にかかった費用や物品などは当時の寺院の経済状態の研究にも役に立つものと思われます。
    また、塔を建立した背景や建立にかかった費用などの記録は、統一新羅時代末期の混乱した社会の様子をはじめ、当時の経済の様子を明らかにする重要な史料となっています。




    休業日
    年中無休

    利用時間
    [八万大蔵経]
    夏季 8:30~18:00/冬季 8:30~17:00

    駐車施設
    あり

    入場料
    個人 - 大人 3,000ウォン/青少年 1,500ウォン/子ども 700ウォン
    団体 - 大人 2,500ウォン/青少年 1,000ウォン/子ども 500ウォン
    ※ 団体は30人以上から
    ※ お支払いは現金のみとなります
    ※ 海印寺チケット売り場 +82-55-934-3140

    トイレ
    あり

    駐車料金
    軽自動車 2,000ウォン/乗用車 4,000ウォン/大型車 6,000ウォン

    韓国語案内サービス
    文化解説ガイド案内(事前に連絡が必要です)

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