• 世界遺産(文化遺産)

        • 2023/05/26

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    Haeinsa Janggyeong Panjeon(Designated 1995)海印寺蔵経板殿の内部

    海印寺蔵経板殿は、ユネスコ世界記録遺産に登録されている海印寺大蔵経板(八万大蔵経)および諸経板を保管するために建てられた建物で、15世紀に建立されたと考えられています。

    蔵経板殿は世界で唯一、大蔵経板を保管する建物という点で特別な意味があり、また、建物そのものに相当な価値があると評価されています。建物は通気性に優れ、温度、湿度の調節が図れるよう科学的に設計されており、今日まで大蔵経板を無事に保存してきたことから、その価値が認められています。

    宗廟(1995年指定)

    宗廟(1995年)宗廟の正殿

    ソウル特別市鐘路区にある宗廟(チョンミョ)は、朝鮮時代の歴代の王と王妃の位牌が祀られている祠堂です。王が国家と民の安寧を祈願するため、臣下とともに定期的に祭祀に参席した場所で、朝鮮の王室の正統性が感じられます。亡くなった人のための建築物であるため、建物の配置や形式には落ち着いた美しさや神聖さ、厳粛さなどが感じられます。

    14世紀末に創建された宗廟は壬辰倭乱(文禄・慶長の役)のときに焼失しましたが、17世紀初めに再建されて現在の姿になりました。中心の建物である正殿は正面が大変長く、建物前の庭とひとつになっており、西洋はもちろん東洋でも類を見ない建築物として知られています。先祖を崇拝する儒教文化により、祭祀の儀礼を基に王室の主導によって厳格に建てられ、現在もその姿が昔のままに保たれています。建築物とともに祭祀、音楽、舞踊、飲食などの無形遺産がともに保存されており、今日まで宗廟祭礼と呼ばれる祭祀儀礼が定期的に行われています。

    主な遺跡

    • 下馬碑下馬碑
    • 正殿の柱正殿の柱

    宗廟の正門前に建っている下馬碑(ハマビ)は、馬から下りよという意味の石碑です。宗廟は歴代の王と王妃の位牌が祀られた場所であるため、王ですら輿車を降りたり下馬したりしなければなりませんでした。正殿は韓国一長い木造建築です。外から見ると20本の柱と19の扉がありますが、内部はすべてつながっており、位牌を祀る太室(テシル)のみ華やかな模様が施されています。正殿内部は一般公開されていませんが、宗廟の香大庁(ヒャンデチョン)にある第2展示館に太室が再現されています。

    正殿に通じる門は3ヶ所あります。南門は霊魂のみが出入りできるところで、東門は王や世子、祭礼を執り行う王の親戚、臣下が使用し、西門は祭礼音楽と舞踊を担当する楽工(アッコン)が使用していました。

    • 宗廟の永寧殿宗廟の永寧殿
    • と永寧殿の石碑永寧殿の石碑

    正殿に位牌を祀る場所が足りなくなったために横に建てられたのが永寧殿(ヨンニョンジョン)です。永寧殿には「王家の祖先と子孫がともに末永く平安であれ」という意味が込められています。永寧殿は正殿に比べて規模が小さく、安置されている位牌数も多くありません。建物は正殿と似ていますが、よく見ると屋根の形が異なっています。正殿は屋根全体が一直線ですが、永寧殿は中央の太室のところが突出しています。
    永寧殿には大きな業績を残せなかったり、在位期間が短かった王の位牌が主に祀られています。

    石窟庵と仏国寺(1995年指定)

    石窟庵仏国寺

    石窟庵(ソックラム)仏国寺(プルグクサ)は8世紀前後の統一新羅時代につくられた古代仏教遺跡です。この2つの遺跡は新羅時代の人々の創造性豊かな芸術的センスが窺えるもので、中でも石窟庵の彫刻像や仏国寺の石造りの基壇および2基の石塔は、北東アジアの古代仏教芸術の傑作のひとつと評価されています。

    石窟庵は花崗岩を重ねて造られた洞窟で、主室の中央に本尊が安置され、その周りの壁面に様々な彫刻像が配置されています。本尊をはじめ、ほとんどの石造彫刻と建築の形態は8世紀の原形のまま保たれており、大変価値のある文化遺産です。

    仏国寺は新羅の理想郷である仏国土を実体化するために造られた建築物です。1592年の壬辰倭乱(文禄・慶長の役)により木造建築はすべて焼失してしまいましたが、幸いにも石段、石橋、石塔、灯篭、青銅の仏像は無事でした。今日見られる仏国寺の建築物は、1969年から1973年の間に行われた復旧作業で部分的に再建されたものです。

    主な遺跡

    • 石窟庵の本尊石窟庵の本尊
    • と十大弟子浮彫像十大弟子浮彫像

    石窟庵の本尊が制作された時代以前の仏像は立って微笑んでいるものが一般的でしたが、石窟庵の本尊は威厳のある顔つきで座っています。石窟庵の十大弟子浮彫像は特徴ある表現と芸術性で高く評価されています。

    • 仏国寺の釈迦塔仏国寺外観
    • と多宝塔多宝塔

    仏国寺の大雄殿の前庭には2つの石塔があり、西側にあるものが釈迦塔(ソッカタプ)で、この塔は無影塔(ムヨンタプ)とも呼ばれています。東側にある多宝塔(タボタプ)は、既存の新羅の石塔とはまったく異なった形式となっています。創建されてから大きな破損や外形の変化がなく、原形のまま保たれています。当時は寺院のメインの建物の前に同じ形の塔を置くのが一般的でしたが、釈迦塔と多宝塔はそれぞれ異なった形をしています。

    昌徳宮(1997年指定)

    昌徳宮仁政殿昌徳宮仁政殿

    昌徳宮(チャンドックン)は朝鮮時代の宮殿で、周辺の自然環境との調和に重きを置いて建てられました。王室の庭園である後苑もまた、その風景が一枚の絵のように美しいところです。昌徳宮は現在残されている宮廷の中でも保存状態が良く、自然と建造物の調和が取れており、韓国の宮殿建築の創意性が分かる特別な事例です。森と木、池、亭子(あずまや) 、そして花壇と、それぞれがバランスよく配置された昌徳宮では、昌徳宮仁政門や仁政殿、熙政堂、昌徳宮大造殿、芙蓉池、楽善斎、敦化門などが主要文化財に指定されています。

    主な遺跡

    • 昌徳宮仁政門昌徳宮仁政門
    • と仁政殿の内部仁政殿の内部

    昌徳宮仁政門は昌徳宮の中心の建物である仁政殿の正門です。自愛に満ちた政治を行うという意味を持つ仁政殿は、王が国家関連業務を行っていたところであり、世子冊封式、結婚式など、王室の主要行事が執り行われた場所です。そういった理由から昌徳宮で最も権威のある建物とされています。

    • 大造殿内部大造殿内部
    • と昌徳宮後苑昌徳宮後苑

    昌徳宮大造殿は王妃が生活していた建物で、西洋式の縁側やガラス窓、家具などが備えられ、現代的な室内装飾となっているのが特徴です。昌徳宮の北側に位置する後苑は、朝鮮時代の王室の庭園です。時代によってその用途は様々ですが、主に王の憩いの場として使われていました。韓国の伝統庭園様式にのっとって造られており、樹齢数百年の大木と亭子(あずまや)が調和しています。後苑は特別観覧コースのため、昌徳宮のホームページで事前予約、もしくは現地で発券後に観覧できるようになっています。

    水原華城(1997年指定)

    華城華城

    華城(ファソン)は京畿道(キョンギド)水原(スウォン)市にある朝鮮時代の城郭です。正祖が父である思悼世子の墓を移すにあたって新都市を建設、これを敵から守るために建てられました。

    華城は既存の韓国の城郭とは区別される新しい様式の城郭です。外国の事例を参考に、新たな防御施設を導入し、これを韓国の軍事的環境と地形に合わせて設置しました。特に華城建設に使用された新装備と材料の発達は、東洋と西洋の科学技術の交流を見せる重要な証拠となっています。

    華城は計画都市でありながら居住地と防御機能を併せ持つ、ひとつの城郭都市であるという点、伝統的な築城技法に東洋と西洋の新しい科学的な知識と技術が積極的に活用されている点、韓国の城郭には珍しく多様な防御用施設が数多く取り入れられている点、周辺の地形に合わせて自然な形に造成され、独特な美しさを持ち合わせている点などの特徴が認められ、1997年にユネスコ世界文化遺産に登録されました。

    主な遺跡

    • 華城、 八達門 八達門
    • と西北空心墩西北空心墩

    八達門は華城の4大門のうちの南側の門です。城を築いた当時の姿が残されており、韓国の宝物に指定されました。城門の外側には半月模様の城を築いていました。これは城門を保護する役割を担うものです。華城の施設の中でも八達門は特に夜景が美しいことで有名で、現在はたくさんの観光客が訪れる場所となっています。

    西北空心墩は、敵の動向を見極めると同時に攻撃も可能な施設であり、韓国では華城でのみ見ることができます。独創的な建築形態と効果的な材料の活用が見られる西北空心墩は、歴史的、学術的、建築的価値が認められています。

    • 訪花隨柳亭訪花隨柳亭
    • 華西門華西門

    訪花隨柳亭は、周辺を監視し軍事を指揮する指揮所と、周辺の自然環境との調和を図る亭子の機能を併せ持っています。石材や木材、土を焼いてつくったレンガが巧みに使われた二階建ての楼閣は、他の城郭では見ることのできない独創的な建築物として評価を得ています。

    華西門は、華城の4大門のうち西側の門として、過去に華城の西側の南陽湾と西海岸方面をつなぐ通路の役割を担っていました。完全な半月模様の八達門の甕城とは異なり、片側が開放されている甕城となっています。

    高敞·和順·江華の支石墓遺跡(2000年指定)

    富近里支石墓江華を代表する遺跡である富近里支石墓

    支石墓は巨大な岩で造られた先史時代のお墓の一種で韓国には高敞支石墓遺跡和順支石墓群遺跡江華支石墓遺跡があります。この3地域には数百基の支石墓が集まっており、密集度および形式の多様性の面で世界的にも珍しい事例です。これらの支石墓遺跡は紀元前1000年に造られたとされ、世界の他の遺跡よりも先史時代の技術と社会性を見ることができます。

    高敞、和順、江華の支石墓遺跡は支石墓文化の形成過程とともに韓国の青銅器時代の社会構造および北東アジアの先史時代の交流を研究するのにとても重要な遺産であると認められ、2000年にユネスコ世界文化遺産に登録されました。特に支石墓の築造過程を知ることができる採石場の存在は支石墓の変化と歴史を研究するのに重要な資料であると評価されています。

    主な遺跡

    • 高敞高敞の支石墓遺跡
    • 和順の支石墓遺跡和順の支石墓遺跡

    韓国最大の支石墓遺跡地は全羅北道高敞です。2009年の現地調査の結果、高敞地域には約1,600基の支石墓があることが明らかになりました。その中でユネスコ世界遺産(文化遺産)に登録された支石墓は447基です。

    和順の支石墓遺跡地は孝山里(ヒョサンニ)と大薪里(テシンニ)という地域一帯に、渓谷に沿ってあります。全体面積が江華はもちろん高敞遺跡地よりも広く、全部で596基の支石墓があります。和順にある支石墓は山のふもとや巨大な岩山など人々が近づきにくい場所に多くあるため、造られた当時の姿が比較的よく保存されています。

    • 高敞支石墓博物館高敞支石墓博物館
    • 江華支石墓遺跡を再現した先史時代の穴蔵江華支石墓遺跡を再現した先史時代の穴蔵

    江華には青銅器時代に造られた支石墓のうち、150余基が残っています。江華島内でも支石墓が分布した地域の地形に差があり、これによって支石墓が造られた時期と生活基盤が違っていたことを推測することができます。

    江華の代表的な支石墓は富近里(プグンニ)にある「富近里支石墓」で、2つの支石が巨大な上石を支えているテーブル型の支石墓です。

    慶州歴史遺跡地区(2000年指定)

    the area of Daereungwon Tomb Complex大陵苑一帯

    慶州歴史遺跡地区は、慶州に分布する昔の新羅時代の遺跡全体を指しています。かつての首都だった慶州には、塔や王陵、山城など新羅の遺跡が集中的に分布しています。千年間続いた仏教文化と、新羅の芸術性が肌で感じられることから、その価値が認められています。

    慶州歴史遺跡地区は大きく5つの区域に分かれています。仏教文化の中心である南山地区、王宮跡である月城地区、新羅の王の陵が集まっている大陵苑地区、新羅仏教の核心地である皇龍寺地区、防御施設がある山城地区といった具合に、それぞれの性格が異なります。代表的な遺跡地としては慶州鮑石亭址慶州南山神仙庵麿崖菩薩半跏像慶州東宮と月池瞻星台、皇南里古墳群、天馬塚(大陵苑)慶州皇龍寺址芬皇寺があります。

    主な遺跡

    • 慶州鮑石亭址慶州鮑石亭址
    • と慶州瞻星台慶州瞻星台

    鮑石亭は当時の王や貴族たちのゆとりが感じられる場所です。慶州南山西側の渓谷にある新羅時代の別宮があったところで、石に溝を掘って水が流れるようにし、盃を浮かべて酒を酌み交わしていました。

    瞻星台は星を見るために高く積み上げられており、宇宙観測台として新羅善徳女王の時代に建てられたものと推測されています。東洋における天文台の中では最も古いもので、空の動きを研究し、農作業をする時期を決定するのに役立てていました。当時の科学水準が高かったことが分かる貴重な文化財です。

    • 芬皇寺模塼石塔芬皇寺模塼石塔
    • 大陵苑天馬塚(大陵苑)

    芬皇寺は、新羅の僧侶であった元暁大師がいた寺です。寺の庭には他の寺では見られない模塼石塔という塔があり、慶州観光で見逃せない見どころとなっています。模塼石塔は、現在まで残る新羅石塔の中でも最も古い塔です。石を煉瓦の形にととのえて積み上げられているのが特徴で、非常に独特です。

    天馬塚は新羅代々の王の墓が集まっている大陵苑地区で唯一公開されている王陵です。天馬図が発見されたため、天馬塚と呼ばれています。この墓は発掘当時、天馬図を含めて1万点以上の遺物が発見されており、古代美術研究や他国との交流の事実を知ることのできる文化遺産となっています。

    朝鮮王陵(2009年指定)

    朝鮮王陵驪州英陵

    朝鮮王陵は、5世紀に渡ってつくられた王や王妃の墓所が保存されている遺跡です。韓国独自の伝統的な自然景観や儒教思想に基づき、国家レベルで建設、管理されたため、比較的保存状態が良いのが特徴です。自然との調和や王陵の持つ祭祀文化の独自性が認められ、ユネスコ世界文化遺産に指定されました。

    王陵は漢陽(朝鮮時代の首都)近郊になければならないという当時の規定から、ほとんどの王陵が漢陽を中心に集まるような形で建設されたため、ソウル、京畿道一帯と江原道地域に位置しています。主な王陵として、ソウルの宣陵・靖陵貞陵懿陵などの他、京畿道の西五陵(高陽)、東九陵(九里)、光陵(南楊州)、隆陵・健陵(華城)、英陵・寧陵(驪州)、江原道の荘陵(寧越)などがあります。

    主な遺跡

    •  宣陵宣陵
    • 英陵英陵

    宣靖陵(ソンジョンヌン)は、宣陵(ソンルン)と靖陵(チョンヌン)を合わせた呼称で、ソウル特別市江南区三成洞にある王陵です。ここには、成宗(ソンジョン)とその継妃・貞顕(チョンヒョン)王后の陵がある宣陵と、息子である中宗(チュンジョン)の陵がある靖陵の3つの王陵があります。

    驪州にある英陵(ヨンヌン)は、ハングルの制定を行ったとされる世宗(セジョン)大王とその妃・昭憲(ソホン)王后が埋葬されたお墓です。世宗は、32年間の在位期間中に訓民正音(ハングル)を創り、これを普及させた他、朝鮮の領土を拡大させるなど、様々な分野で多くの業績を残しました。

    • 高陽西五陵の昌陵高陽西五陵の昌陵
    • 九里東九陵の景陵九里東九陵の景陵

    ソウル城郭の西側にある5つの王陵からなる「西五陵(ソオルン)」には、明陵(ミョンヌン)、敬陵(キョンヌン)、昌陵(チャンヌン)、翼陵(インヌン)、弘陵(ホンヌン)が置かれています。この場所に初めて造られた王陵は、若くして病死した世祖の長男、懿敬世子(徳宗)が埋葬された敬陵とされています。

    東九陵(トングルン)は、京畿道九里市にある9つの王陵です。ここには17人の王と王妃の御陵があり、朝鮮王陵の中でもっとも規模が大きいところです。特に景陵(キョンヌン)は、朝鮮王陵では唯一の三連陵(3つの陵)で構成されており、憲宗(ホンジョン)と2人の王妃の陵が並んでいます。

    • 荘陵の紅サル門荘陵の紅サル門
    • 寧越の荘陵寧越の荘陵

    寧越にある荘陵(チャンヌン)は、第6代王の端宗(タンジョン)の墓です。端宗は、叔父によって王位を剥奪され、現在の寧越地方に追放された後、若くして生涯を終えることになった悲運の王として知られています。この王陵は、首都圏に多く集まる他の王陵と違って漢陽からもっとも遠く離れていますが、多くの人々が訪れる王陵のひとつとなっています。

    韓国の歴史村:河回と良洞(2010年指定)

    安東河回村 安東河回村

    慶尚北道にある安東河回村慶州良洞村は14~15世紀につくられた歴史的な場所です。河回村と良洞村は韓国の代表的な氏族村で、長い歳月をかけて同じ姓を持つ人々が集まって暮らしながら独特な文化を受け継いできました。現在も村には人が住んでいて、2つの村で両班(ヤンバン)と平民を厳格に区別した朝鮮時代の儒教文化を見ることができます。特に両班と平民の家屋の配置は朝鮮時代の社会と文化が反映されています。河回村と良洞村には宗家をはじめ、両班が住んでいたキワチプ(瓦屋根の家)、亭子(あずまや)、書院や祠堂、昔の平民が住んでいたチョガチプ(藁葺き屋根の家)などがあります。

    主な遺跡

    • 安東河回村と河回別神クッタルノリ安東河回村
    • 安東河回村と河回別神河回別神グッタルノリ

    安東河回村は高麗時代末期に許氏、安氏、柳氏の姓を持つ3つの氏族によって形成されましたが、後に柳氏の氏族だけが残りました。韓国の伝統的な姿がよく保存されているこの場所は、1999年イギリスのエリザベス2世女王、2005年アメリカの当時の大統領であるブッシュ大統領、2019年イギリスのエリザベス2世女王の次男アンドルー王子が訪問したことで、国際的な名所として知られるようになりました。

    河回村では昔、両班達が暮らしていた家と学問を学んだ書院、平民達が暮らしていた多様な形態の家を見ることができます。また、伝統的な建物ばかりでなく、庶民の遊戯であった「河回別神グッタルノリ」や、ソンビ(昔の学者)の風流遊びであった「船遊(ソニュ)ジュルブルノリ」も現在まで伝承されています。「河回別神グッタルノリ」は韓国伝統の仮面劇で、「船遊ジュルブルノリ」は花火の一種です。

    • 慶州良洞村慶州良洞村
    • 慶州良洞村伝統ノリ(遊び)

    良洞村は典型的な両班村の形態をしています。両班達が住んでいたキワチプは村の高い所にあり、平民達が住んでいたチョガチプは村の下の方にあります。各建物は使用する目的と用途がはっきりと区分されているので位置も違います。

    良洞村の入口には村の歴史や遺物について知ることができる遺物展示館があります。また、様々な伝統文化体験プログラムが運営されています。

    南漢山城南漢山城

    南漢山城道立公園は朝鮮時代、非常時に臨時首都として機能するように築かれた城で、7世紀初めに築城されたとされており、中国や日本などの影響を受けながら築城技術が発達したことが分かるという点で、歴史的・文化的価値があります。

    東西南北にそれぞれ4つの門と門楼があり、城内には守禦庁、倉庫、行宮などがあります。主要文化財としては守御将台長慶寺、行宮、崇烈殿、清涼堂があります。

    主な遺跡

    • 守護将台守護将台(写真提供:文化財庁)
    • 長慶寺長慶寺(写真提供:文化財庁)

    守御将台は南漢山城に建てられた4つの将台の中で現存する唯一の建築物であり、南漢山城のなかで最も高い日長山の頂上にあります。丙子胡乱では仁祖が45日間滞在して直接指揮をとりました。

    長慶寺は1683年に建立された寺院で、南漢山城の建築を手伝っていた全国の僧侶が宿泊していたことから、朝鮮時代の僧侶が国のために活動していたことが分かる文化財です。僧兵のためにつくられた9つの寺の中で唯一保存されている場所です。

    • 南漢山城行宮地南漢山城行宮地(写真提供:文化財庁)
    • 崇烈殿崇烈殿(写真提供:文化財庁)

    南漢山城の行宮は、国の戦争の際、首都の役割の代わりをする避難場所として使用されました。他の行宮とは違なり、国家の仕事の処理のための施設が備わっており、宗廟や社稷の空間が設けられています。

    崇烈殿(スンニョルジョン)は百済を建国した温祚(オンジョ)王と山城築城当時の責任者だった将軍を祀った祠堂で、現在でも南漢山城に関する大きな行事があるたびにここで祭祀が執り行われています。

    百済歴史遺跡地区(2015年指定)

    定林寺址 定林寺址の五層石塔

    百済歴史遺跡地区とは忠清南道公州市から扶余郡、全羅北道益山市にかけて分布している遺跡群を指しており、韓国の古代国家のひとつである百済の痕跡を窺い知ることができます。華やかな文化を花咲かせた百済の王宮や寺院の跡が見られるため、一度は訪れてみたい魅力的な観光スポットです。隣国との交流を通して発展した百済の文化的価値がよく分かる遺跡で、特に中国・日本などとの相互文化交流の証拠となる点が高く評価され、世界遺産に登録されました。

    百済歴史遺跡地区は公州公山城(コンジュ・コンサンソン)公州武寧王陵(コンジュ・ムリョンワンヌン)と王陵園(ワンヌンウォン)官北里(クァンブンニ)遺跡と扶蘇山城(プソサンソン)定林寺址(チョンニムサジ)·定林寺址五層石塔扶余(プヨ)王陵園扶余羅城(プヨ・ナソン)益山王宮里(イクサン・ワングンニ)遺跡弥勒寺址(ミルクサジ)の計8つの遺跡で構成されています。

    主な遺跡

    • 公山城公山城
    • 武寧王陵武寧王陵

    公山城は百済時代には熊津城(ウンジンソン)と呼ばれていましたが、高麗時代以降に公山城と呼ばれるようになりました。公山(コンサン)の頂上から西側の峰までを囲む山城で、歴史的な価値が高いこともさることながら、夜景が美しいことでも知られており、多くの観光客が訪れています。

    武寧王陵は百済の第25代王である武寧王と王妃の墓です。古代の墓の中では珍しく墓に眠る人物が明らかになっているもので、盗掘などの被害がなく、完全な状態で発見されました。約4,600点の遺物が出土し、歴史的価値はもちろんのこと、美術史研究にも貴重な資料となっています。

    • 扶蘇山城にある落花岩扶蘇山城にある落花岩
    • 弥勒寺址の幢竿支柱益山弥勒寺址の幢竿支柱

    扶蘇山城は百済が遷都して滅亡するまでの123年間、百済の都だったところで、当時は泗沘城(サビソン)と呼ばれていました。ここは百済の歴史の最後となったところで、3,000人の宮女が身を投げたという伝説が伝わる落花岩(ナックァアム)は景色の大変素晴らしい場所です。

    弥勒寺址は百済時代最大の寺院である弥勒寺(ミルクサ)があったところで、ここの見どころは石塔と幢竿支柱(タンガンジジュ)です。石塔は韓国最古・最大のものであり、東塔は1992年に復元され、西塔は2018年に復元されました。幢竿支柱は保存状態がよく、文化遺産として価値が高い遺跡です。

    山寺、韓国の山地僧院(2018年指定)

    浮石寺 浮石寺

    「山寺、韓国の山地僧院」は韓国の山地型仏教寺院である通度寺(トンドサ)浮石寺(プソクサ)鳳停寺(ポンジョンサ)法住寺(ポプチュサ)麻谷寺(マゴクサ)仙岩寺(ソナムサ)大興寺(テフンサ)という7寺院で構成されています。韓国の寺院は平地に建てられたものと山地に建てられたものに分けられます。しかし朝鮮王朝以後、平地寺院はほとんどなくなり、山地寺院は現在まで残ってきました。世界遺産委員会は、これらの寺院が7~9世紀に創建されて以降、その機能(仏教共同体が信仰と修行を基礎として生活)を維持しており、「顕著な普遍的価値」に相当すると評価しました。 これは「山寺、韓国の山地僧院」の持続性、歴史性、立地と環境、機能性など、高い真正性が認められたことを意味します。

    主な遺跡

    • 通度寺通度寺
    • 浮石寺浮石寺

    通度寺は646年に創建されたといわれています。釈迦の遺骨である「舎利」を奉安した金剛戒壇があり、 大雄殿には仏像がないというのが通度寺の特徴です。その他、扉を開けるとすぐに仏像が見える他の寺とは違い、通度寺の霊山殿は扉を開いても仏像がすぐには見えず、仏像は東に置かれているのが印象的です。また霊山殿には釈迦の生涯を描いた「八相図」があり、仏画様式を理解するための貴重な資料となっています。

    浮石寺は676年に創建されたと伝えられています。煩悩を象徴する108の階段が有名です。また、韓国で最も古い木造建築物のひとつである「無量寿殿」は建築学的にも大きな意味をもっています。

    • 鳳停寺鳳停寺
    • 金銅弥勒大仏金銅弥勒大仏

    鳳停寺は672年に創建されたと伝えられています。鳳停寺の入口にあたる楼門「万歳楼」は、体をかがめなければ通れない高さとなっていますが、ここから謙虚にならなければならないという仏教の教えが垣間見えます。 また鳳停寺は、韓国最古の木造建築のひとつに数えられる国宝「鳳停寺極楽殿」をはじめとし、 国宝「鳳停寺大雄殿」などを保有しています。

    法住寺は553年に創建されたとされており、韓国唯一の木造塔「捌相殿」をはじめとし、多様な文化財を保有しています。また、青銅100トン以上が使われたという高さ33メートルの巨大な金銅弥勒大仏も見どころとなっています。

    • 麻谷寺麻谷寺
    • 仙岩寺「昇仙橋」仙岩寺「昇仙橋」

    麻谷寺史跡立案の記録によると麻谷寺は640年に新羅の高僧慈蔵律師が創建したと伝えられています。まわりの山や川と調和し、麻谷寺ならではの雰囲気を醸し出しています。また、この寺を取り囲む周辺の山と水の景色は太極のように曲線を描いており、朝鮮時代の幾度かに及ぶ大きな戦乱にも全く被害に遭わなかったのはそのためだと考えられています。

    仙岩寺は529年に創建されたと伝わる寺院です。仙岩寺へ向かう道ではアーチ型の昇仙橋と、樹齢600年以上といわれる梅の木に出会えます。また仙岩寺は他の寺院と違い、入口の四天王門がないことや、大雄殿に脇侍菩薩像がないこと、大雄殿の中央の御間門(本堂の正面中央の入り口)がないというのが大きな特徴です。

    • 大興寺 大興寺

    大興寺は高麗以前に創建された寺院で、正確な創建年代は不明です。仏教信仰により国家を保護するという信念を持ち、多くの僧侶を輩出している他、韓国の茶文化が定着した場所でもあります。広い盆地に位置し、殿閣の数が多く、3区域に分けられています。

    韓国の書院(2019年指定)

    陶山書院

    「韓国の書院」は韓国的特性がよくわかる性理学教育機関として紹修(ソス)書院灆渓(ナムゲ)書院玉山(オクサン)書院陶山(トサン)書院筆岩(ピラム)書院道東(トドン)書院屏山(ピョンサン)書院武城(ムソン)書院遯岩(トナム)書院の9ヶ所で構成されています。これらの書院は16世紀から17世紀に設立された、性理学を教える教育施設で現在に至るまで韓国の性理学と関連した文化的伝統がよく保存されているという点において世界遺産の必須条件である「顕著な普遍的価値」を認められました。

    主な遺跡

    • 通度寺紹修書院
    • 浮石寺陶山書院

    紹修書院は朝鮮中期の学者である周世鵬(チュ・セブン)が建立した白雲洞書院がその始まりです。朝鮮初の書院であり、王から書院の名が書かれた扁額を下賜され、国の公式支援を受けた書院です。紹修書院は他の韓国書院のもつ典型的な配置とは異なり、儒生たちが勉強する空間として使われた直方斎と日新斎が続けて配置されています。

    陶山書院は韓国を代表する儒学者でありソンビ(学徳をそなえた人に対する敬称)である退渓・李滉(イ・ファン)の学問と徳行を追慕するために1574年に建立された書院です。主教育施設を中心に配享空間と付属の建物で構成されており、書院の建築物は全体的に簡潔・質素で、退渓・李滉の品格と学問を学ぶソンビの姿勢をよく反映しています。

    • 鳳停寺屏山書院
    • 金銅弥勒大仏遯岩書院

    屏山書院は高麗時代の儒林の教育機関であった豊山県に位置した豊岳書堂を今の屏山に移したのがその始まりです。位牌を祀るところと勉強する大講堂、儒生たちの宿舎と書斎で構成されています。また、ここは書院の草創期における建築様式を呈しており、書院前には洛東江が流れ、韓国性理学の伝統と美しい自然景観が調和しています。

    遯岩書院は沙溪・金長生(キム・ジャンセン)の思想をつなぐために創建されました。この書院は1660年に朝鮮第18代王・顕宗が「遯岩」と名づけました。

    「韓国の書院」9ヶ所は興宣大院君による書院撤廃令が出された時にも撤廃を免れ存続した書院です。

    伽倻古墳群(2023年指定)

    高霊池山洞古墳群

    伽倻(カヤ)古墳群は紀元前後から6世紀半ばまで韓半島南部に存在した古代国家、伽倻(加耶/伽耶)の文化を示す代表的な遺跡です。現在まで伽倻の遺跡であることが確認された古墳群は203ヶ所ですが、そのうち重要性が認められユネスコ世界遺産に登録されたのは金海大成洞古墳群、咸安末伊山古墳群、陜川玉田古墳群、高霊池山洞古墳群、固城松鶴洞古墳群、南原酉谷里と斗洛里古墳群、昌寧校洞と松峴洞古墳群の7ヶ所です。伽倻古墳群は同時代に存在した新羅、高句麗、百済に比べて文献記録が十分でない伽倻の歴史や生活像を明らかにするのに決定的な役割を果たしています。ユネスコ世界遺産委員会も伽倻古墳群が周辺国と自律的かつ水平的な独特の体系を維持し、東アジアの古代文明の多様性を示したと評価しています。

    主な遺跡

    高霊池山洞古墳群(写真提供:伽倻古墳群推進団)

    伽倻は現在の釜山広域市と慶尚道、全羅道の一部地域にかけて存在したさまざまな都市国家の総称です。主要国は金官伽倻(金海)、大伽倻(高霊)、阿羅伽倻(咸安)、小伽倻(固城)、星山伽倻(星州)、古寧伽倻(尚州)であり、5世紀からは大伽倻が伽倻北部を統合して主導権を握るようになりました。連盟の中心勢力としての大伽倻の地位は高霊池山洞古墳群によく現れています。可視性に優れた丘陵地に大きな古墳が密集して造られていることからも見て取れる他、墓からは百済式青銅器や日本産の夜光貝で作られた杓子(貝匙)が出土しており、これは大伽倻が周辺国との交流が非常に活発だったことを意味しています。

    咸安末伊山古墳群(写真提供:伽倻古墳群推進団)
    • 鳳停寺
    • 金銅弥勒大仏
    • 45号墳発掘調査の様子と出土品(写真提供:伽倻古墳群推進団)

    咸安末伊山古墳群は伽倻の全時期において勢力を維持した阿羅伽倻を代表する古墳群です。丘陵地の稜線に沿って大小の墳丘が並ぶ姿が特に美しく、一番大きいものは直径40メートル、高さ9.7メートルに達します。また墓からは高杯、長頸壺、双把手付壺、器台など阿羅伽倻特有の様式で製作された土器が多数出土しています。その他、近隣にある咸安博物館では、阿羅伽倻の歴史や副葬品に関する詳細について知ることができます。

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    最終更新日:2023年9月26日

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